「百円ライター」

                2006.8.6(平和聖日)

エレミヤ書6:13〜21 hymn  l6,531.420

 おそらく現存する日本で最も古い讃美歌というのが、青山学院に所蔵されています。ページをめくると全体が崩れてしまいそうなものなので、大切に保管されているようです。私はそれのコピーを見たことがあります。讃美歌というよりも、百人一首の取り札のような趣でした。譜面はなく、歌詞が筆で書かれており、私には解読不可能なものもありました。

 明治時代後期の讃美歌になると、製本されたきれいな状態で保存されています。そちらの方は実物を見たことがありますが、今の讃美歌と大きく違っている点は、歌詞が縦書きというぐらいで、全体的にはほとんど変わりません。しかし譜面は横書きで歌詞が縦書きというのは見にくい感じがしますし、縦書きですから、今の讃美歌とは逆に、ページを右に開いていく形となります。

 もう1つ、明治時代後期の讃美歌と今の讃美歌が大きく違っている点があります。明治後期の讃美歌は、1番最後に戦っている歌が「君が代」なのです。神さまを讃美する歌を集めた本の最後は、天皇をあがめる歌で締めくくられています。

 20年ぐらい前に私がいた神戸の須磨教会に、酒井さんというおじいちゃんがいました。ある時酒井さんは、ご自宅に青年たちを招いてくださり、ご自分の戦争体験を私たちに語ってくれました。その時に「変わった讃美歌がある」と出してこられたのが、「君が代」付きの讃美歌でした。昭和初期の讃美歌で、讃美歌1番の前に「君が代」が載せられていました。神さまを讃美する本の最初が、天皇をあがめる歌です。神よりも天皇が先なのです。

 最後に「君が代」の付いた明治後期の讃美歌、最初に「君が代」の付いた昭和初期の讃美歌、その移り変わりが時代の大きな流れを象徴しています。天皇制の強化はそのまま、戦争に突入していくことでした。

 教会は、礼拝の中で「君が代」を歌いました。日本中の教会が、礼拝の時間になると皇居の方角を向いて拝礼し、天皇を拝みました。当時の日本基督教団総会議長は伊勢神宮を参拝しました。教会では牧師が、招集されて戦争に行くことがいかに神のみ心に適うことであるかを熱心に説教で語りました。天皇のために死ぬことは神のみむねであると説き続けたのです。

 酒井さんは、私たちに「君が代」付きの讃美歌を見せながら、つぶやくように言いました。「2度とこんな讃美歌をつくったらあかん。こんな歌を教会が歌ったらあかん」。

 私はキリスト教主義の中学・高校を出ましたから、「日の丸・君が代」とはまったくおつきあいすることなく大学に入りました。大学に入ってすぐに先輩に誘われて、神学部の同級生たちと野球を見にいきました。同志社と立命館の試合で、関西では伝統の同立戦といわれるものでした。試合開始直前になると野球場にアナウンスが流れました。「ただ今より、国旗を掲揚し、国家を斉唱いたします。皆様ご起立ください」。私は何も考えずに立ち上がりました。

 すると隣にいた同級生が私に向かって言いました。「おまえは、なんで立つんや。『日の丸・君が代』の意味がわかって立ってんのか?」。なんのことだかわかりませんでした。

 それが私にとっての「日の丸・君が代」との出会いでした。

 その後「日の丸・君が代」の歴史と意味を知った私は、2度と立つことも歌うこともなくなりました。オリンピックやサッカーやラグビーの試合をテレビで見る時も、「日の丸・君が代」の場面になるとスイッチを切ります。放送終了時に「日の丸・君が代」を流していたNH Kには受信料を払いませんでした。須磨教会のバザーで万国族が張られた時には、それを理由にバザーへの参加を拒否し、教会に万国旗を掲げるような牧師を(父親なのですが)批判しました。万国族には「日の丸」がついています。そしてアジアの国々の旗もあります。「日の丸」を先頭にやってきた日本軍に虐殺されたアジアの人々とその国、それらの国々の雄と日の丸を1本のひもで結び付けることの無神経さに怒りましたし、今も痛みをひきずっているアジアの人々の思いを無視するかのような行為に憤りました。

 1999年、「国旗・国歌法案』が国会に提出された当日、森喜朗、当時の自民党幹事長は言いました。「日の丸は軍国主義だとか、君が代は天皇崇拝の歌だとか言われた時期もある。しかし、戦後50年以上が過ぎた今、そんなことを言うのは、特定の思想の持ち主しかいない」。

 その『国旗・国歌法案」が成立し、「日の丸・君が代」が法制化されて以来、学校ではさらに強制力が強くなりました。「日の丸・君が代」に反対する教職員は処分されていき、子どもたちは洗脳されていっています。

 今年の春、卒業式の少し前の頃の我が家での子どもたちの会話です。大気が言いました。「小学校で1番人気の歌は『君が代』なんだよ」。すると未来があわてて忠告しました。「そんなことパパに聞かれてみろ。ぶつとばされるぞ」。

 ぶつとばしはしませんが、学校の現状に憂いを覚えました。

  1987年10月26日、沖縄本島の中部にある読谷村で、沖縄国体男子ソフトボール試合会場のスコアボードの上に掲げられた日の丸が燃え上がりました。この時グランドではソフトボール競技の開始式が執り行なわれていました。130円のカッターでロープを切って日の丸を引き下ろし、百円ライターで火をつけたのは、知花昌一さんという方でした。日の丸を燃やした知花さんは、悠々とその場を立ち去り、同じ日に検察庁に出頭して逮捕されました。国体の開始を邪魔し、15分間遅れさせたという威力業務妨害による逮捕でした。

 敗戦間近に日本で唯一の地上戦が行われた沖縄の、読谷村はアメリカ軍上陸の地でした。上陸に際して米軍は読谷村に艦砲射撃を行い、その破壊力は10平方メートルに砲弾が3発あまり炸裂するというすさまじさでした。これに対して日本軍はまったく抵抗することなく、南部の首里方面へ撤退しました。米軍を内陸部まで引き込み消耗させることで、日本本土上陸への時間を稼ぐ作戦でした。沖縄を犠牲にして本土侵攻を遅らせようとしたのです。その結果、米軍は1時間足らずの間に、1万6000人以上の兵士の上陸を完了させます。

 日本軍は撤退し、見捨てられた読谷村の住民は、沖縄の言葉でガマと呼ばれる洞窟に避難しました。シムクガマに逃げ込んだ約1000人の住民は、まわりを囲んだアメリカ兵の投降の呼び掛けに応じて、ほとんどがガマを出て助かりました。ガマに避難していた者の中にハワイへの出稼ぎ移民の経験者が2人いて、彼らの「アメリカ兵は民間人を殺さない」からという説得と、米軍との交渉の結果によるものでした。そして助かった者たちは、戦後「非国民」と呼ばれ、恥じの中で生きることを強いられました。

 シムクガマから人々が助かったその翌日、読谷村にあったもう1つのガマ、チピチリガマでは、82名もの人々が自決しました。「天皇の赤子である日本人なら、生きて虜囚の辱めを受けず」ということで、家族が家族を殺しました。ある者は身内に毒薬を注射し、ある者はわが子の首を包丁で切り、最後にはガマの中に燃える物を集めて石油をかけ火をつけて、「天皇陛下ばんざい」と叫んで死んでいきました。82名の自決者のうち、十代以下の子どもが49名、半数以上が子どもです。彼らは自発的に死を選んだわけではなく、肉親の手にかかって死なされたのでした。

 後の時代、『家永教科書裁判』と言われる教科書の戦時中の記述をめぐる裁判で、国側の証人に立った作家の曽野綾子氏は、チピチリガマの集団自決のことを指して「そういう選択をされた島の方たちは立派だと思う」と語りました。

 助かった人は「非国民」で、集団自決は「立派な死」だというのです。

 1972年5月15日、沖綱は本土に復帰しました。沖縄の人々は本土復帰に際してこう思っていました。復帰すればその日から米軍基地は撤去され、日本一貧しい県であることから解放され、米軍からいいように踏みにじられてきた人権も回復し、本土へ渡るにもパスポートは必要なくなる。

 その復帰のシンボルが日の丸でした。人々は日の丸を振りかざして、本土復帰を歓迎しました。ところがいざ復帰してみると、実現したのはパスポートの廃止だけでした。沖縄の人々の夢と願いは、政府によって見事に裏切られたのです。

 それ以来、「日の丸」は沖縄から姿を消しました。

 1987年3月、読谷高校の卒業式で、2年生の女子生徒が会場に飾られた「日の丸」を引き下ろすという事件が起こりました。「日の丸」を胸に抱えて引き下ろそうとする壇上の生徒に対し、教頭は「アンダ、成人だったらこれは犯罪行為なんだよ」と言いました。それに対して女子生徒は叫びました。「だれが賛成しましたか!だれが賛成しましたか!だれが賛成しましたか!」。 「日の丸」を飾ることに一体誰が賛成したのか、卒業式の主役であるはずの生徒に一言の相談もなかったではないか、そう訴える声が響きました。「日の丸」はドプの泥につけられ、高いコンクリートの塀から学校の外へ投げ捨てられました。

 この事件について、後に「日の丸」を燃やした知花さんは語っています。「事件を聞いた時、すごいな−と思った。本当は大人こそがあれくらいのことをやらなくちゃいけないなと思った。おそらくですね、女学生のやったこと、読谷のほとんどの人たちが感動の拍手をもって応えたと思うんですよ。女学生を非難するような声は出ていない。賞賛の拍手が圧倒的ですよ」。

 その当時の読谷村村長の山村氏はこう言っています。

 「読谷村は今時大戦で上陸地点となり、多大な犠牲者を出した。今も48%が米軍の基地という事情がある。

 これまで各種式典において、日の丸掲揚、君が代斉唱の慣行もなく、日の丸について村民に特別の感情がある。ところがここ2.3年くらい前から、『日の丸・君が代』に対する県の強力な行政指導が行われるようになった。具体的に言えば、卒業式に向けて、県の教育委員会からの『日の丸・君が代』を実施するとの強力な指導がある。これに対しては村議会において、『日の丸・君が代』の押しつけに反対決議がなされている。

 村民約2万9000人のうち、中学生以上の8000人もの署名を集めた『日の丸・君が代の押しつけ反対』の署名もある。このように非常に複雑な事情がある」。

 沖縄で初めて行われる国体の開会式は、那綱で開催されることになっていました。開会式には「日の丸・君が代」の実施が強制されます。ところが、各スポーツごとに行われる開始式は、主催者の判断によって式典の内容が決められることになっていました。

 ソフトボールの競技会場となった読谷村では、当たり前のように、開始式に「日の丸・君が代」は用いないことにしていました。

 ことろが日本ソフトボール協会会長の弘瀬勝氏から、読谷村の山村村長に対して通告が出されます。「日の丸掲揚、君が代斉唱をしないのなら、別の市町村での開催も有りうる。それも駄目なら、他県での開催も考えられる」。

 「日の丸・君が代」をやるか、それとも何年も前から準備し村をあげて取り組んできた国体をやめるか、ということです。

 その結果、山村村長は折れて、「日の丸」が揚がることになったのです。村長ととても親しかった知花昌一さんは、いきさつを知らされず、「村長は日の丸を揚げない」と信頼していました。

 ソフトボール競技の開始式の2日前、関係者が読谷村役場に集まって、「日の丸」掲揚と、ソフトボール協会会長弘瀬勝氏のチビチリガマ参拝が発表されます。知花さんはそれを夕刊で知ります。知花さんは「信じられなかった。村長がふんばると思っていたから」と言っています。

 その翌日、知花さんは朝早くにチビチリガマに出かけて、抗議の立看板を取り付けます。一度朝食を食べに家に帰って、再びチビチリガマに行くと、たくさんの報道陣が集まっています。そこに親しい与那綱フミさんという、チビチリガマで5人の家族全員を亡くしたおばあさんも来ていて、知花さんに語りかけます。「参拝シミランガ」(参拝はさせないでおこう)。

 知花さんがチピチリガマの前まで行くと、ソフトボール協会関係者によって、立看板は取り外されていました。知花さんは抗議します。「アリバイ的に参拝はしないでほしい。ここはどういうことが起こった場所なのか、あんたがたは知っていますか。『日の丸・君が代』によって教育された村民が多数自決した場所だ。そこに参拝するということが、どういうことなのか考えてほしい。『日の丸』を押しつけた弘瀬に、参拝してこい、と言われて来るようなことは好ましくない。しかし皆さんはせっかく来ているんだから、参拝するんだったら真剣な気持ちでやってほしい」。

 そこへ弘瀬氏が登場します。知花さんは思わず叫びます。「アンタはやるな!アンタは

資格がない」。「日の丸を押しつけたおまえが何で参拝するか」。

 知花さんはその翌日、読谷村のソフトボール会場で、持っていた百円ライターにすべての思いを込めて、日の丸を焼きます。艦砲射撃で死んだ人々の思い、ガマで死んでいった人々の思い、わが子に手をかけざるをえなかった親の思い、本土復帰の時の思い、日の丸を下ろした女子高生の思い、「参拝シミランガ」とつぶやいたオバーの思い、沖縄の思い、平和への思い、自分の生きてきた思い、それらすべてを百円ライターに込めて、日の丸に火をつけました。

 知花さんは検察庁に出頭する前に記者会見を行い、次のようなメッセージを残しました。

 「読谷村民の皆さんへ

 沖縄は去った大戦で筆舌しがたい悲しみを受けた。読谷村は米軍の上陸地点であり、復帰前78%復帰後47%の米軍基地の中で苦汁の生活を強いられてきた。これは全て戦争のせいであり、今なお多くの人々が戦争の悲しい思いを背負っている。沖縄は天皇・日の丸・君が代によって、徹底的に教育され〈動物的忠誠心〉とまで言われたほどに、戦争に動員されていった。その結果が20万人の戦死者であり、集団自決である。集団自決は自分が愛するからこそ、自分の手にかけていくという、親が自分の子どもを、兄弟を手にかけていくという、想像を絶する悲しい出来事です。これは全て天皇・日の丸・君が代に代表される天皇制の結果であります。日の丸を先頭に君が代を歌い、天皇を崇拝し、総動員されていったのが去った沖縄戦なのです。

 国体はスポーツの祭典であるべきです。スポーツに『日の丸・君が代』は必要ありません。読谷はこれまで国体成功のために一丸となって準備を進めてきました。その矢先、日本ソフトボール協会の弘瀬会長が『日の丸を揚げないと国体会場を変更する』という、これまでの村民の努力を冒涜する発言をやってきました。ゆるせません。国体における『日の丸・君が代』押しつけは天皇を中心とした総動員体制をまたしても作り上げていくものとしか思えません。

 『日の丸』は常に戦争の最先端にあり、「日の丸』を振って戦争にかつぎだされていった。『日の丸』が人々の幸せのために役立ったことなど一度もありません。

 私は沖縄の真に平和を愛する人々と、愛する読谷村の真に戦争を拒否する人々を思い、自分の体験と学習を通して得た知識と、自分自身をかけて『日の丸』を焼き捨てた。知花昌一」。

  この事件の直後、知花さんが経営するスーパーが深夜放火されました。続いてその6日後、買い物客がいる白昼にもかかわらず、右翼によって殴り込みをかけられ、犯人の持つバールやハンマーなどで、店内は滅多打ちに破壊されました。無言電話や脅迫電話もひつきりなしでした。右翼が知花を殺すという噂も流れました。

  チビチリガマの入り口には、その追悼のシンボルとして「世代を結ぶ平和の像」が造られていましたが、やはり右翼によって木っ端みじんに破壊されました。破壊された像の前には、「国旗燃ヤス村二平和ワ早スギル天諌下ス」と書かれた紙と、手書きの粗末な日の丸が、鉄製の鋭いモリにくくられて、地面に突き立てられていました。

 エレミヤの時代、イスラエルはナショナリズムの渦の中にありました。自分たちのみが神に選ばれた特別な民族であるという伝統的な思想は、他の民族に対して排他的な姿勢を打ち出しました。それに加えて、宗教的指導者たちは、個人の自由や利益を無視して、大国主義に陥っていました。傲慢さと富を追及する姿勢が表面化していたのです。そして指導者たちは、神の意志を取り違え、自分たちの在り方に酔ってしまい、恥ずかしいことを恥ずかしいとも思わなくなっていました。

 そのような指導者たちのことを、エレミヤは語ります。「彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに『平和、平和』と言う」。              

 またエレミヤは主の言葉を伝え、過去に学べ、過去に歩んできた道をふり返れば、これからどのような道を歩むべきか、どれが幸いに至る道か見えてくると語りますが、指導者たちは「そこを歩むことはしない」と言っています。

 私はそれが、日本の状況と似ていると思うのです。アジア諸国に対する排他性、個人の自由や利益の無視、大国主義、傲慢さ、富を追及する姿勢、恥ずかしいことも平気でやってのける国の姿、平和がないのに「平和、平和」と言い、過去に学ぼうとしない姿勢。

 「日の丸・君が代」の好きなキリスト者もいます。天皇が好きなキリスト者もいます。いてもいいと思うのです。曽野綾子さんのようなキリスト教右翼もいますし、嫌いですが、その存在を否定する気持ちはありません。それぞれの信仰の問題として、きちんと対応しているのならば、その人なりの国家観や平和観があってもいいと思います。

 しかし同時に、小さな声に耳を澄ますことも大切です。神さまに与えられた命を脅かす風潮に気をつけることは大事です。戦争につながるあらゆることを監視していくことも必要です。

 平和を願わない人はいないでしょう。問題になるのは何が平和であるかということです。

 平和を脅かす力は悪です。悪とは闘う必要があります。闘うのは武器によるのではありません。私たちは信仰によって、神とのつながりによって、平和を考え、悪と闘うのです。そのためには、私たちの周辺の流れに、無関心であってならない、他人まかせであってはならないということです。

 4日前に、チピチリガマに行ってきました。私たち夫婦にとっては14年ぶり、子どもたちにとっては初めてのことでした。

 チピチリガマ入り口の、右翼によって破壊された「世代を結ぶ平和の像」は、その無残な姿を隠すために、直後からプルーシートで覆われました。しかし間もなく、現実を見てもらいたいとして、プルーシートがはずされ、14年前の私たちはその姿を目の当たりにしました。その後、「世代を結ぶ平和の像」をまるで守るかのように、新しい像が建立され、その内部に破壊された状態のものが残され、それが見えるようになっています。

 チピチリガマの入り口にはたくさんの千羽鶴が下げられていて、厳粛な空気が流れていました。ガマの中には今もたくさんの遺骨が残されています。ガマそのものがたくさんの人々のお墓としてそこに存在し、その場でたくさんの命が失われた事実に、改めて戦争の悲惨と痛みを受け取り、平和に向けての祈りを捧げました。

 1人の神を信じる者として、平和を求めていきたいと思っています。神を信じて神に結び合わされている共同体として、平和を願い、祈り、行動する教会になりたいと思うのです。

 聖書は告げています。「だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」。

                      (エフェソの信徒への手紙6:13〜18)