「ちむぐりやっさあ」                 2005.5.29

使徒言行録2:37-47hyo25,323,417

 

 私には、榎本恵という友人がいます。彼の父親は榎本保郎といって、キリスト教界では著名な人物です。作家の三浦綾子さんが、榎本保郎牧師の生き様に感銘を受けて、伝記小説を書いたほどです。その作品である『ちいろぱ先生物語』をお読みになった方もあるかもしれません。
 三浦綾子さんの『ちいろば先生物語』が単行本となって発表された直後、榎本保郎牧師と親しかったたくさんの牧師たちから、「この本にはええことしか書いてないなあ。俺には『ちいろば先生裏物語』が書けるで」という声があがったのを覚えています。伝記小説というのは、いい話がちりばめられているという性質のものだし、榎本保郎といえども、人間である限りいろんな面があるということです。

 そのように偉大な、榎本保郎を父としなければならないという、大変不幸な境遇に育った榎本恵は、高校生の時に父を病気のために亡くします。しかしそのことが榎本保郎伝説に拍車をかけることになり、榎本恵は父親の名前を背負って生きることを余儀なくされました。榎本恵は、ある時にはそれから逃げようともがき、ある時にはそれと闘おうとし、そして私たちが知り合った大学生の頃は、あきらめてそれと共存しようとしていた時期だったようです。
 もう20年近く前になりますが、滋賀県の近江八幡教会で行われた榎本恵の結婚式に出席をしました。彼は新郎新婦人場の時に、右手と右足、左手と左足とを同時に出して歩き、それを直そうとしながらぎこちなくバージンロードを進み、転びそうになるという、緊張に固まった姿を見せてくれました。その様子を見ていた会衆の含み笑いに包まれながら、結婚式が始まったのでした。
 この結婚式の出席者が不思議でした。若い2人の結婚式なのに、若者の姿は数えるほどで、あとは数え切れないほどのお年寄りぱかりでした。その謎は結婚披露パーティーで解けました。次々にスピーチをする人たちが皆、新郎新婦はそっちのけで、ずいぶん前に召されている榎本保郎牧師の話ばかりするのです。どうやら、榎本恵の知り合いというよりも、榎本保郎の知り合いばかりが出席していたようです。どのスピーチを聞いても、登場してくるのは「ちいろぱ先生榎本保郎」の名前とエピソードばかりで、まるでタイムスリッブして榎本保郎の結婚式に出席しているかのような錯覚を起こすほどでした。

 榎本恵は結婚後しばらくして、近江八幡から沖縄の伊江島に移り住み現在に至っています。彼の書いた文章を紹介したいと思います。その文章の前半では、沖縄に来る修学旅行生が増えていること、彼らが沖縄で戦争のことを学んでも、それを頭で知ることはできるかもしれないが、からだで感じることはできにくいこと、などが書かれています。
 その後半の文章です。

 「ある日のことだった。仕事を終えて家に帰ると、妻がニコニコしながら待っている。どうしたのかと尋ねると、昼間、向かいの刺身屋のおばさんが突然、『寂しくないかねえ』と沖縄ソバを持って来てくれたのだという。
 おぱさんは、いつも子どもと2人で寂しそうに遊んでいるアンタの姿を見ていると、遠く故郷を離れ、山形に嫁いでいった娘のことを思い出して、と話していったという。おばさんが帰った後、妻はうれしくて、患わず涙ぐんでしまったそうだ。
 こんなこともあった。畑仕事の合間に、1人のオバー(沖縄ではおばあさんのことをこう呼ぶ)に、実家のことを尋ねられたことがある。父は高校のときに死んだこと、母は今1人で生活していることなどを話すと、オバーはまじまじと私の顔を見つめ、ポツリとひとこと『大変だねえ』とつぶやいた。
 たったそれだけのことなのだが、私には、それがなんだかとてつもなく優しい言葉に思えた。戦争で夫を亡くし、今まで1人で子どもを育て、生きてきた、そんなオバーの思いが私の心に響いてきたからだ。
 見ず知らずの土地で、しかも沖縄の人からすれば、異質な存在であるヤマトンチューが受け人れてもらえるだろうか、そんな私たちの構えた思いなどはるかに越え、ちっぽけな自分の計りなど砕けてしまうような、心に染み入る経験を、何度もさせてもらってきた。
 きっと、こんなことを繰り返しながら、私たちは沖縄を感じるようになるのだろう。
 沖縄独特の言葉に、『ちむぐりやっさ一(肝苦しい)』というのがある。私たちが使う日本語の中には、どうもしっくりと当てはまるものがないそうだ。
 しかしあえて訳すとすれぱ、それは『あはれ』ではないかと、私は思っている。言葉の響きで誤解されるかもしれないが、それは本来、単にかわいそうに思う気持ちを言い表すのでなく、人の痛みの中に自分の痛みを見いだし、心の奥深くにある哀しみを共感させる言葉ではないだろうかと思っている。
 『ちむぐりやっさ一』とは、決して上から下を見下すような物言いではなく、同じような経験、いやそれ以上の哀しい体験をくぐってきた中からにじみでる「あはれ」なのだ。
 刺身屋のおばさんが、妻の姿に見たものも、オバーが私の母に感じたものも、それは自身の哀しみをその奥に投影した『ちむぐりやっさ一』なのだと私は思っている。
 以前、沖縄へ修学旅行に来た、あるキリスト教主義学校の生徒たちの座談会記事を読んだことがある。その中の1人の生徒がこんなことを言っていた。

 教師 夜には、ひめゆり学徒の生き残りの宮城喜久子さんの話を聞きましたね。
 生徒 腕のない人がいたとか、ガス弾で紫色になって死んでいたとか、経験したことをわあ一っと言ってもらっても、結局、僕らにどう思ってほしいのかということが、正直わからなかったんです。

 おそらく10代の彼は、彼なりに正直にその時の気持ちを述べているのだろう。そしてそれは、r大変ですね」などと深刻そうな顔つきで言った後、友だちと笑い声を上げ、ふざけている姿よりは真実な思いなのかもしれない。
 しかしそれが真実であればこそ、その言葉のもつ貧相な感性が気になるのだ。
 私は決して、彼を責めるつもりはない。ただ、もう1度ぜひ沖縄へ来てもらいたいのだ。

 1人でさすらうように、この沖縄を訪ね歩いてほしい。それはもしかすると、その言葉を言わしめた自分の計りや尺度を見直す機会になるかもしれないからだ。
 私たちが前へ前へ進むことの中で、見落としてきたものが、豊かで明るい生活を過ごすために、片すみにおいやってきたものが、この沖縄にはある。
ここは、今の世の中で、もう数少なくなってしまった、人間の住む島なのだ」。

 1941年、宗教団体法という法律が施行され、日本のブロテスタント諸教派の教会は、国家の要請に従う形で1つの教団となりました。それが日本基督教団です。この時の国家の要請というのは、実際には要請ではなく、強要・強制でした。教会の群れはそれに屈服する形で日本基督教団となったのです。国家に屈服した教会は、それ以降、国家の方針のままに、すなわち天皇制国家の枠の中でのみ、信仰に従うことが許されたわけです。
 日本基督教団は、非常に不本意な形で合同し、各地域ごとに教区ができました。その時、沖縄の諸教会は九州教区沖縄支教区となりました。

 教義や慣習や信仰告白など、様々な違いを持った各教派が無理やりに合同させられたわけですから、日本基督教団はすべての面で意識まで1つになれるはずがありませんでした。
 そのようなこともあって、日本基督教団は部会制をとり、元々の教派に準じた11のグルーブをつくりました。私の出た同志社大学は、組合教会という教派の牧師養成学校でした。その組合教会は第3部でした。
 それら11グループのうち、第6部と第9部が国家からにらまれることとなりました。彼らの持つ千年王国思想が天皇制を否定するものだとされたからです。そして6部・9部は、国家からの弾圧を受け、何人もの信徒や牧師が殺されてしまうことになります。
 その時、日本基督教団は、6部・9部の牧師たちの教師籍(資格)を剥奪しました。教団は6部・9部とは関係ないということを示そうとしたからです。
 日本基督教団はその後、朝鮮キリスト教会を吸収合併し、日本語を強要して、国家の皇民化政策に同調し、熱心に戦争に協力していきました。

 戦後、日本基督教団は何の反省もなしに、キリスト教ブームに乗って伝道を行っていきました。
 1946年、戦後初めての教団総会が開催されました。各教区からの代表が集まったのですが、九州教区沖縄支教区の代表は参加していませんでした。沖縄支教区にも連絡はしたが返答がなかったということですが、沖縄の代表がいなかったということは記録にさえ残されていません。
 この教団総会で、日本基督教団は沖縄支教区をなくしてしまいました。すなわち沖縄の教会を、教団から切り捨ててしまったのです。

 日本で唯一地上戦が行われた沖縄。日本軍の手によって多くの住民が殺された沖縄。捕虜になるな自決しろと言われ、家族・兄弟が互いに殺し合わなければならなかった沖縄。

 沖縄にいた7人の牧師のうち、本十出身の5人は強制的に帰らされていました。沖縄出身の2人の牧師のうち、1人は戦死、もう1人は病死でした。
 戦後、焦十と化した沖縄で教会が新しい出発を始めようとした時、そこには牧師はいませんでした。信徒が7つの教会を守ったのです。崩壊した教会を建て直し、あるいは開拓伝道をし、集まってきた信徒たちを牧会したのは信徒でした。

 戦後24年間、日本基督教団は沖縄の教会と公式に手を結びませんでした。沖縄の7つの教会は信徒たちρ働きで23教会になり、1957年に沖縄キリスト教団を形成しました。1969年、沖縄の本十復帰の流れの中で、日本基督教団も沖縄キリスト教団と合同しました。けれどもそれは、大が小を飲み込む形での、合同という名の復帰であり吸収でした。

 戦前・戦中・戦後を通じて、日本基督教団のすべての動きは常に国家に同調していました。教会は国家の命令によって合同し、国家の弾圧や敗戦に合わせて仲間を切り捨て、国家が沖縄の本士復帰を叫ぶと教団も沖縄を復帰させるというものでした。日本基督教団は、国家と別の論理を持てず、自分のからだが傷ついているのに、痛みを感じなかったのです。

 戦後、宗教団体法が廃止され、教団から離脱する教派が現れるまで、日本基督教団は合同教会としての信仰告白を持っことができませんでした。あわてて信仰告白をつくりましたが、反対する者もいました。それに対して教団は、反対者を除名していきました。
 日本基督教団は、6部・9部のキリスト者を見殺しにし、沖縄を切り捨てました。国家に屈服して迎合し、罪とあやまちを重ねてきたのです。しかしそのようなことは、信仰告白の中で一切ふれられていません。
 その日本基督教団信仰告白は、沖縄の代表がいない教団総会で制定されました。

 沖縄の言葉で言う「ちむぐりやっさあ」。人の痛みの中に白分の痛みを見いだし、心の奥深くにある哀しみに共感する「ちむぐりやっさあ」が大切なのです。

 聖霊降臨の時、エルサレムに集まっていた人々の群れに聖霊が与えられ、初めてキリストの教会が牛まれました。ペトロの説教を闘いた人々は、強く心を動かされます。そして尋ねるのです。「わたしたちは、どうしたらよいのですか」。
 それに対してぺトロは、「悔い改めなさい。めいめい、イェス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と答えます。

 「悔い改める」ということは、それまでの口分の生き方をふり返り、過去のあやまちや痛みをしっかりと見据えたうえで、視点を変えるということです。
 また「洗礼を受ける」ということは、それまでの古い自分を脱ぎ捨て、新しい、神によって立てられた自分を着るということです。

明るい未来を想像することは簡単です。まだ何も起こっていないのですから、そこには希望もあり願いもあります。
 しかし、過去を見据えつつ未来を見つめることは難しいことかもしれません。過ぎ去ったあやまちや罪の出来事をとらえなおして、そこから新しい何かを生み出していこうとする姿勢には、多くの労苦が伴うことでしょう。苦痛を感じるはずです。しかしそれは、感じなけれぱいけない苦しみなのです。

 ペトロはそれを行ったのです。そしてこのペンテコステの出来事以降も、それを続けていったのです。
 聖霊降臨の時に人々に悔い改めと洗礼を望んでいるペトロ自身が、イエスを切り捨て、イエスを見殺しにし、イエスの十字架から遠く離れてしまった男なのです。しかし彼は、それでも神によって捕らえられたのです。イエスとの出会いは、ペトロを何度も引き戻し、ペトロはそのたびに苦しみを感じながら、同時に新しくされていったのです。
 だからこそ、ペトロには語るべき言葉が与えられ、聖霊の働きによってその言葉が力を持って人々に迫っていったのです。

 ペトロの言葉に聞き従い、人々はイエス・キリストを受け入れます。大勢の信仰の仲間がここに加わったのです。
 聖書にはこの時の人々の様子が描かれています。44-47節「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」。
 これが最初の教会の姿です。もちろん、制度や組織が整った教会となるのはずっとあとのことですが、しかしここに教会婁原点が示されています。
 支え合い、分かち合い、いつも心を1つにして、礼拝し、聖餐にあずかり、共に食事をし、配慮し合う。それが教会の本来の姿なのです。

 イエスがいなくなった哀しみや不安ややりきれなさの中にいた弟子たちに、聖霊が与えられました。聖霊は力となって、弟子たちに語るべき言葉を与え、人々にその言葉を理解させ、信じる者たちの間に一致を呼び起こし、そこからさらに神の業の働きを巻き起こしていきました。
 このペンテコステの出来事は、決してその時ばかりのことではありません。私たちの教会においても、聖霊は同じ働きをなしえるはずです。私たちはそこから、力を与えられるのです。
 大切なのは、そこに集う私たちの心です。「ちむぐりやっさあ」、人の痛みの中に白分の痛みを見いだし、心の奥深くにある哀しみを共感することです。
 そこから新しい白分がはじまり、教会の働きも聖霊の力に満たされるはずです。


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