「赦すということ」

2006.3.12
ルカによる福音書6:37-42517,249,121

「育児をしない男を、父とは呼ぱない」。息子の大気が生まれた頃の、厚生省の広告のキャッチコピーです。ポスターの写真には、歌手の安室奈美恵さんの子どもと、その当時は夫であったサムさんが起用されていました。父とあかちゃんの写真の横には、「家庭や子育てにr夢』を持てる社会を。厚生省」と小さく書かれており、その反対側に大きく「育児をしない男を、父とは呼ぱない」という文字があって目を引きました。
そして写真の下の方にはこう書かれていました。見出しは「お父さんでいる時間を、もっと」。それに文章が続きます。「1日17分。日本のお父さんが育児にあてている平均時間です。2人でつくった子どもなのに、これではお母さん1人で育てているみたい。こんな状況では、女性が安心して赤ちゃんを産もうと思えないのも無理のないことかもしれません。妊娠や出産が女性にしかできない大仕事なら、育児は男性にもできる大仕事なのではないでしょうか。お父さんたちには子育ての楽しさ、大変さを、もっと知ってほしい。そして21世紀を担っていってくれる子どもたちのことを、もっと考えてほしい。ゆったりと子どもの心を見つめるゆとりを持って、素敵なお父さんになってください」。

文章の冒頭の「2人でつくった子どもなのに」という言葉に、子どもは親の所有物といった感じが受け取れて、本当は「2人に与えられた子ども」という認識をしてほしいと思うのですが、それ以外はなかなか優れた広告ではないでしょうか。けれどもその後、安室奈美恵さんとサムさんが離婚するに至って、育児をしなかったから父とは呼ぱれない関係になったのかと考えてしまいました。
この広告の背景には、当時大きな間題とされていた出生率の低下がありました。2を割り込んで1.73になった時だったと記憶しています。そんな状況での厚生省の広告でしたが、r育児をしない男を、父とは呼ぱない」という言葉は刺激的だったようで、これには賛否両論があったようです。そして出生率は、その後も下がり続けています。

おとうさんが育児にかける時間が17分という、その育児というのが何を指しているのかわかりませんが、これは6歳未満の子どもがいる世帯の、夫婦による育児時間についての1996年の統計で、もう一方のおかあさんは2時間39分なのだそうです。これにっいては少な過ぎるという印象をもちますが、育児という言葉が示す内容がわからないので、実質的なことを判断できません。
しかし見えてくる構図は、育児ができない父親と、育児ぱかりをせざるをえない母親という現実です。小さい子どもを持つ母親の日常は、育児に始まり、育児と食事のことを考え、育児に疲れて、育児に終わるという面があるように思うのです。

そうやって日常をおくる母親は、育児ストレスを抱え込みます。育児は母親の精神と肉体に大なり小なり負担となり、そのはけ口をどこかに見いだすこともできにくいのが現状でしょう。そして、つもりつもったストレスは、時に必要以.上に子どもをしかることや、感惰を荒げることや、場合によっては殴る蹴るという行為や、子どもの存在を無視して泣こうがわめこうがほおっておくという仕打ちになって表れることがあります。
我が子がかわいい、愛しいという思いはあっても、同時に、なぜ自分ぱかりがこのような苦労をしなければならないのか、なぜ自分は自分のために時間を使えないのか、なぜ自分だけが育児の犠牲にならなければならないのかという潜在的な思いを生じさせます。
その気持ちや不満を直接夫に訴えることもできずに、あるいは訴えても闘いてもらえずに、妻は疲れていくのです。

その結果かもしれないと感じさせられるアンケート調査があります。対象は45歳-54歳のサラリーマン家庭です。
「夫は妻と一緒に過ごしたいと思っているが、妻は一人の時間の方が好き」。これは居心地のいい時間について尋ねたものです。自分が一番居心地がいいのは「一人の時」であると妻の6割が回答し、夫の方は逆に6割近くが「夫婦でいる時」が居心地がいいと答えています。どうも夫から妻への片思いのようです。
また、妻の半数近くが「離婚を考えたことがある」のに対し、夫の4分の3は「離婚を考えたことはない」と答えています。そして夫婦の会話では、共働きの場合では「互いの仕事の話題」が多いのに対して、専業主婦タイプでは、妻が一方的にしゃべり夫は聞いていないというパターンが多いのだそうです。
疲れて帰ってきているのだから、妻の話題にはのれないという夫の気持ちもわからなくはありません。しかし、育児に負われてストレスを抱えている妻の気持ちと不満の方が理解できます。
そのような日常の積み重ねが、夫と妻の思いのすれ違いとなるのでしょうし、それがさらに積み重ねられれば、熟年離婚となっていくのでしょう。夫の方は妻の思いが理解できないままに、妻の方はもうこんな夫は許せないとなるのです。ずっと自分の負担とストレスを抱え込んできていて、それは同時に夫を許せないという瞬間瞬間の思いの積み重ねでもあったということなのでしょう。

他人なら許せるけれど夫婦だから許せないということがあります。よその子なら許せるけれど、我が子だから許せないということがあります。どうでもいい人のことは許せても、自分の身内は許せないということがあります。
例えぱ、兄弟で勉強を教えるとつい怒ってしまうとか、親子でピアノのレッスンをするといつも腹が立つとか、教師に言われても平気なことが親に言われると頭にくるとか、私たちはそんな共通の経験をしていないでしょうか。
親しい関係だからこそ許せないと思ってしまうこと、身内だからこそ小さなことにも腹が立つということ、その原因と理由は、実は信頼や期待や距離感にあるのではないかと思うのです。

誘拐された人が、時間がたつにつれ犯人を信頼しはじめるという話を聞いたことはないでしょうか。もちろん誘拐されたのですから、最初は怖がり、次には憎み、さらには許せないという思いを抱くでしょう。しかし人間というのは不思議なもので、殺されるかもしれないという恐怖と極度の緊張の中で、密閉された場所で、犯人しか他に人間がいないという状況で、だんだん犯人への共感をもつようになるというのです。死の恐怖から逃れたいという心理は、最も身近にいる人間に期待や信頼を寄せます。それが恐怖を与える当事者である犯人であってもです。過去の誘拐犯罪の例を見ても、誘拐された人が犯人に協力的になるとか、犯人の相談にのるとか、犯人の手伝いを積極的にするなどの事例がいくつもあって、犯罪心理学で証明されている事柄です。要するにこれは相手との距離感の問題なのです。

もちろん結婚は誘拐ではありませんが、中には誘拐みたいな結婚生活もあるかもしれません。家族を人質扱いして自由を奪う人もいるかもしれません。
それはともかく、考えたいのは人間同志の距離感ということです。日々の生活の中での疲れや悩みや問題点を抱えて、人は最も身近な存在に期待や信頼を寄せます。家族は時にストレスの原因となることがありますが、しかし同時に最も距離感のない所にいる人生のパートナーでもあるのです。お互いに何か約東事をしたり、1つ1つの事柄に共通理解があるわけではありませんが、それでも人は、最も距離感の近い所にいる家族に、…方的に、そして慢性的に期待をして信頼を置こうとします。そしてその期待や信頼は、日常生活の中で裏切られ続けていくのです。

例えぱ、こういうことです。兄が弟に勉強を教えます。すると腹が立ってきます。「どうしてこんなことがわからないんだ」と怒ります。でもわからなくて当たり前なのです。兄は自分のわかっていることを教えようとするわけですが、弟はまだ知らないことを知ろうとして勉強するわけですから、わからないことがあって当然です。それなのになぜ怒るかというと、白分がわかっているのだから弟もわかるはずだという期待があるからです。自分の言葉ややり方が弟に届くはずだという信頼があるからです。それがかなわないから怒るのです。これがよその子ならぱ、怒る前に「こいつ理解力がないんだ」で終りです。

子どもが遅く帰ってくると親が怒ります。「どうして遅くなったんだ」「遅くなるなら電話ぐらいしろ」。この背景には、晩御飯の用意が無駄になったという徒労感もあるでしょう。しかし親の思いは、信頼関係が裏切られたということなのです。家族という身近な存在が食卓を囲むという、共通理解だと思っていたことが壊されたから怒るのです。親が期待していたことが果たされなかったことに怒るわけです。ところが子どもの方は信頼を裏切ったなどとは思っていません。「電話しなくてごめんなさい」ぐらいのことです。ですから親は余計に詐せないのです。自分の期待や信頼を相手が理解していないということが許せなくなるからです。

教師から「お前は何でこんなこともわからないんだ」と言われても、たいしたことはありません。教師が他の生徒との比較でそう言っていると薄々わかっているからです。別に白分の人格や才能そのものが否定されたわけではありません。ところが親から同じことを言われたら怒ります。それは自分の人格や才能の否定に闘こえるのです。そもそも半分ぐらいはあんたの遺伝子のせいだよ、などと思ってしまいます。親からの否定は信頼の喪失です。親は自分を保護してくれる存在だと期待していたのです。それが失われた時、あんな親は許せないくとなります。

近くにいるという距離感が、あるいは身近にいて距離感がないということが、何の根拠も約束もないのに、相手に信頼や期待を寄せることにつながります。もう少し希望のある言い方をすると、愛情や親しさという根拠が、何か約東でもあるように錯覚させ、相手に一方的な信頼や期待を抱かせてしまうのです。そしてそれが原因で、許せないという感情を起こさせます。

人間が生きていくためには、性格も好みも考え方も価値観も立場も利害も異なる他者と交わらなければなりません。夫婦もそうですし、家族もそうです。会社や学校、ご近所や出会う人々がそうです。教会だって同じです。
そして私たちは、そのような多様な交わりの中にあって生活をしています。そこで当然ながら、互いに物質的にも精神的にも対立することがあり、損書を与えたり受けたりすることがあります。そこには自然な感情として、あるいは自己保存の本能として、怒りや憎しみや憤りが生じてきます。またそれぞれの持つ価値観や正義の基準から、許せない行為というものも存在します。
しかし、感情のおもむくままに行動すれぱ、人間関係はすぐに傷つき、壊れていってしまいます。関係を壊さない方法、人間関係を回復させる方法ははっきりしていて、皆が知っています。赦すということです。

まど・みちおさんという詩人がいます。以前の説教でも紹介しましたが、子どもたちの大好きな歌「ぞうさん」やrやぎさんゆうびん」の詩をつくった人です。
「さかな」
さかなやさんがさかなをうっているのを
さかなはしらない
にんげんがみんなさかなをたべてるのを
さかなはしらない
なんだか、人間が魚に赦されているような気がします。捕ることを、売ることを、買うことを、そして食べることを。魚は知りませんが、人間は赦されているのです。赦されたうえで、私たちの命は成り立っているということです。

「毛虫」
.毛虫を踏みつぶせぱ、
何億年の昔の方から仲びてきた細い手に頭をこずかれ、
「ただ今おひきとりになったお方は
どなたさまでしょうか…」との声を聞く。
毛虫にも赦されているような気がしてしまいます。不注意で踏みつぶすこと、小さな虫を不用意に殺してしまうこと、自然の力や自然の中に、私たちは赦されているようです。

これはきっと、神の一視線に近いのだと思うのです。神の世界はすべての命への働きかけです。その中にあって、私たちはたくさんの命に囲まれています。たくさんの命を食べることによって、人間は存在できているのです。そして赦されることによって、私たちは生きることができるのです。

イエスは赦すことについてのたくさんの言葉を語っています。マタイによる福音書18章には、赦すことについてペトロがイエスに尋ねる場面があります。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか」・それに対してイエスが答えます。「あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までも赦しなさい」。
7回というのは、1回目から数えて7回という意味ではなく・「たくさん」という意味を表す言葉です。そして70倍は「果てしなくたくさん」ということです。すなわちイエスは、「たくさん赦すどころか、永遠に赦し続けなさい」と言っているのです。なぜなら、旧約聖書から一貫して流れている神の姿勢が、人間を赦すということだからです。ところが赦されて生きている人間は、なかなか人を赦そうとはしません。
イエスが言っていることは簡単です。「神さまがあなたを赦しているんだから、あなたも赦しましょう」、そう言っているのです。

幼稚園で子どもたちにしているお話をします。幼稚園ではより伝えやすくするために、ぺ一プサートを用いて、視覚にも訴えながらお話をしますが、きょうは相手が皆さんで大人ばかりですから、ぺ一プサートは使いません。皆さんの想像力と理解力に信頼と期待を置いてお話します。
ある日、船長さんが船に乗って川の上をプカプカ行くと、それを見つけた子どもたちが声をかけました。「船長さん、ぼくたちも船に乗せてくれる?」。船長さんは「いいよ。いいに決まってるじゃないか」と言いました。子どもたちは船に乗って、楽しそうにプカプカ行きました。そこへ、うさぎがやってきて言いました。「船長さん。私も船に乗りたいなあ。船に乗せてくれる」。船長さんが応える前に、子どもたちが言いました。「ダメだよ。だってキミはピヨンピョンとぴ跳ねるから迷惑だよ」・うさぎは悲しくなって帰って行きました。しばらく行くと、そこへ、猿がやってきて言いました。「船長さん。ボクも船に乗りたいなあ。船に乗せてくれる」。船長さんが応える前に、子どもたちが言いました。「ダメだよ。だってキミはキーキーうるさいし、すぐにマストの上に登るから危ないよ」。猿は悲しくなって行ってしまいました。しばらく行くと、そこへ、象がやってきて言いました。「船長さん。ボクも船に乗りたいなあ。船に乗せてくれる」。船長さんが応える前に、子どもたちが言いました。「ダメだよ。だってキミは重過ぎる。船が沈むと大変だもん」。象も悲しくなって行ってしまいました。
次の日、子どもたちが川に行くと、きょうも船長さんの船があります。子どもたちは船に乗せてもらおうと近づいていきました。けれどもきょうは、もう船の上にうさぎと猿と像が乗っています。子どもたちはきのうのことを思い出しました。自分たちがいじわるしたことを思い出したのです。でもやっぱり船には乗りたい。そこで勇気を出して言いました。「船長さん、ぼくたちも船に乗せてくれる?」。子どもたちはドキドキしました。船長さんが応える前に、動物たちが言いました。「いいよ。いいに決まってるじゃないか」。

私たちは赦さないことに理由づけをしていないでしょうか。赦さない理由を探して、本当は赦したいのに赦さないということはないでしょうか。赦しは関係を壊さないために最も有効な心の働きです。人間関係を回復させるための、最大の働きかけなのです。そのことがわかっているのに、赦さない理由を考えようとしていないでしょうか。

ヨハネによる福音書8章にある「姦通の女」の話は、イエスの赦しを伝えています。きょうの聖書箇所では、イェスはこう言っています。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか、自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか」」。
私たちは神の赦しの中にいます。そしてそのことを忘れてしまいがちです。

赦すとは、相手の心を理解することです。赦しは愛から出るものです。相手への共感や相手の心を思いやる想像力から赦しは生じてきます。
赦すとは忘れることではありません。すんだことは水に流そうと言われても、そうそう簡単に水に流すことはできません。私たちは記憶するという能力をもっていますから、あったことをなかったことにすることはできません。ですから怒りの種類や理由をもう一度考えてみること、怒りの記憶を越えること、自分の受けた傷を癒すことが必要になります。それは私たちの意志だけの問題ではありません。赦そうとする意志をもっても、水に流すことはできないのです。
.けれども、私たちの意志や感性に加えて、信仰が処方箋となります。自分の信仰を顧みて、神に赦されていることを知り、そこからどうするかを考えていくことが、信仰者の歩み方なのです。

説教トップへ