「尽きない流れのように」                        2007.8.5                アモス書5:21〜27  hymn 89,421,531

 私の牧師ガウンは、銀座にある「ナオミ」という店で作ってもらったものです。教会でアドベントの時に使うクランツも、「ナオミ」で購入しました。「ナオミ」という店の名前は、旧約聖書の『ルツ記』に登場する女性主人公から付けられたようです。

 幼稚園でクリスマスのページェントをする際に、子どもの聖歌隊が身に付けるブーケも「ナオミ」で買いました。発注した時にお店の方は、ブーケは手作りなので、できあがり予定を改めてお電話しますとおっしゃいました。

 後日、幼稚園の玄関で私が数名のおかあさん方と話をしていると、電話をとった職員が私に向かって大声で叫びました。「園長先生、銀座の『ナオミ』さんからお電話です」。ホステスにしか聞こえません。私はおかあさん方への釈明にあわてることとなりました。

 他にも、しばしば幼稚園の園長宛てにかかってくる電話があります。それも個人名で、非常に親しそうな口調でかかってくるものですから、電話を取り次ぐ職員は私の友人からのものだと思って電話をまわしてくれます。

 「お電話を代わりました」と言って電話に出ると、要するに物を売りたいという内容なのです。マンション・株式・穀物や金の相場などに投資しろという勧誘です。マンションは住むためではなく家賃収入を得るためのものです。今がお買い得で老後も安泰だとおっしゃいます。まだ老後のことは考えていないと答えます。株式など、私には見当もつかない動向をお話になり、今 300万円投資してくれたら 1.5倍になる可能性があると言います。そんなお金はないと答えます。相場では、今どこの国で災害が起こっているから小麦の流れがどうなってと、わけのわからない理論を展開して、もうかるとおっしゃいます。災害が起こったという、人の不幸も金儲けの種になるようです。小麦なんてお好み焼きが作れるだけ買えば十分だと答えます。

 そんなことを言ってもなかなか引き下がってはくれません。最終的には、「私は園長をしていますが、本業は牧師なので、もうかる話にはのりません。もうからない人生でいいのです」とお伝えします。すると向こうは「いや、けっしてもうかるだけの話ではありません」と言います。そこで「なんだ、もうからないのなら結構です」と言って電話を切ります。からかうのは少し楽しいですが、こんなことに時間をとられるのは悲しいことです。 どうも電話をかけてくる方々は一様に、幼稚園の園長はお金を持っていると確信しているようです。

 

 園児数 450名と茅ヶ崎で最も大きな幼稚園の園長は、給料は30万円だが、その他に年収が2000万円以上あるのだと言います。それは株や投資による収入なのだそうです。幼稚園の資金を運用して利益をあげているようです。こういう方がいらっしゃるので、幼稚園に教育とは関係のない余計な電話がかかってくるのでしょう。その園長はきっと、子どもの顔もお金に見えるのではないでしょうか。

 きょうは司会者に、旧約のアモス書を読んでいただきました。アモスというのは紀元前 760年頃、北王国イスラエルに登場した預言者です。その時代の北王国イスラエルは繁栄の中にありました。そこでアモスは、繁栄の中で、お金や豊かな暮らしにのみ価値観をもつ人々に、神による審判の、裁きの預言を語ったのです。

 アモスはもともと「家畜を飼い、いちじく桑を栽培」(7:14)することを仕事としていましたが、ある時突然神からの召命を受け、使命を与えられます。彼は民族の伝統をよく知る人であり、当時の社会の中で、裁判が公正に行われず、人々が必要以上のぜいたくにふけり、神に従おうともしないのに大量の献げ物をささげていることを嘆いたのです。アモスはそのような社会的不正、上層階級の退廃と高慢を批判し、宗教祭儀・礼拝の堕落に対しては、神の厳しい処罰の預言を告げました。

 

 平和と繁栄を謳歌していた北王国イスラエルの状態は、ずいぶんひどかったようです。平和と繁栄は一部の支配階級のもので、弱い人々を踏み台にして築いていたのでした。

 その当時の北王国イスラエルの様子を書いた文章です。

 「支配階級の間では、切り石をもって広大な邸宅を建て、しかもそれに象牙をちりばめ、彼らには避暑用の家・別荘があり、象牙の床に寝起きし、体に香油をぬり、最高級の小羊と子牛の肉を食い、ぶどう酒を飲み、琴の音にあわせて歌いさわいだ。宮殿のような大邸宅は相当な数であった。

 しかしこの派手で豪華な生活は、むしろ、富める者が貧しい者を組織暴力的な方法で搾取することにより、強い者が弱い者を圧迫することにより成立するものであった。…(彼らが)詐欺的な取引を駆使して強制的に取り上げても、それらは法廷で守られていた。彼らは司法の権能を濫用し、自らの私利私欲のためには、正当な法的権利のある者を蹂躙し、金銭のために友を売り、貧しい者を靴一足の値段で奴隷として売る。貧しい者を踏みつけて麦の贈り物を強要し、正しい者を虐げて賄賂をとり、力なき弱者をおしまげる。貧しい者がますます生活に困る状態に陥り、壊滅するのももうそう遠いことではないと思われた。つまり最も悪しき時代がここにあった」。(『説教者のための聖書講解』)

 

 聖書箇所には、「祭りにまさる正義」との見出しがついています。「祭り」とは祭儀のことであり、神を礼拝することです。イスラエルは神によって定められた祭儀を行っており、それはイスラエルにとって最も重要なことだったはずです。

 しかし神は、その「祭りを憎み、退ける」と言われます。神はもはやイスラエルの祭りを受け入れないというのです。それはそこで行われる礼拝が、心のこもらないむなしいものだからです。また、神はどのような献げ物をも受け入れないといいます。それは、心の伴わない形式だけの献げ物だからです。神は、讃美の歌も竪琴の音も聞かないといいます。それが形式だけの、心のないものだからです。

 

 25節にはこうあります。「イスラエルの家よ かつて40年の間、荒れ野にいたとき お前たちはわたしに いけにえや献げ物をささげただろうか」。

 捧げなかったのです。なぜならそれが神の主要な求めではなかったからです。いけにえや献げ物による祭儀・礼拝ではなく、神からの恵みと助け、そして人々の神への絶対の信頼が、神と人々とを結びつけていたからです。

 ところが今や、星の神ケワンを仰ぎ担ぎ上げ、偶像を礼拝して神を忘れているのです。

 主なる神の求めるものはただ1つです。「正義を洪水のように 恵みの業を大河のように 尽きることなく流れさせよ」。

 荒れ野の間を流れる川が生命の源であるように、正義と恵みの業を生命の源として生きよ。不正を捨て去り正しい秩序を維持し、正しい人間関係を打ち立て、神との正しい関係を回復するようにつとめよ。神の正しさをもとにした考えと行動によって、正義と恵みの業のたえずあふれる人間社会を築け。神はそう語っているのです。

 

 アモスの予言が、今の私たちのまわりの状況に似ているのではないかと思えます。平和と繁栄の陰に、苦しむ者の声が聞こえてきます。

 

 私たちは、かつてこの国が積極的に戦争を行い、多くの人々を戦場に駆り立て、銃後の人々を戦争に巻き込み、たくさんの命を奪ったことを忘れません。国民の思いは別として、その戦争が侵略戦争であり、東アジアの多くの人々を苦しめ、たくさんの命を奪った現実を忘れません。強制連行によって、従軍慰安婦として、意志と自由を奪い、苦しみと悲しみを与えたことを忘れません。国家のさらなる繁栄を目指す姿勢のために、一部支配階級の欲望のために、たくさんの命が捨てられ奪われたことを忘れません。

 

 従軍慰安婦問題について、1993年8月に政府は河野官房長官談話として次のような発表をしました。「当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である」「すべての方々に対し心からおわびと反省の気持ちを申し上げる」。

 これらの言葉だけでは不十分だと思いますが、それまでまったく謝罪しなかったこの国が、少しだけまともになったのでした。

 しかし今年の3月1日、安倍首相は従軍慰安婦について「強制性を裏付ける証拠がなかったのは事実」と発言しました。また6月には、国会議員や言論人たちが、アメリカの新聞ワシントン・ポストに「THE FACTS(事実)」と題した、「第二次世界大戦中に日本軍によって強制的に従軍慰安婦にされたことを示す歴史文書は存在しない」と訴える全面広告を出しました。

 平和と繁栄の中にあるこの国の政治家たちは、またもや、かつての侵略戦争と植民地支配で苦しめた人々を冒涜しています。

 7月30日、アメリカ下院本会議では、「日本政府に公式謝罪を促す慰安婦決議」が採択されました。この決議案に反対する意見はありませんでした。

 しかし安倍首相はすでに3月の参院予算委員会において、「決議があったからといって、我々が謝罪するということはない」と答弁しています。

 アメリカ下院本会議で、ラントス外交委員長は語っています。「日本が謝罪を拒むことは、アメリカと日本の関係を重視するすべての人々の心をかき乱す」。

 

 「戦後レジーム(体制)」からの脱却を唱える安倍政権は、こういった歴史の事実を覆い隠そうと躍起になっているかのようです。

 文部科学省は教科書検定において、来年度から使用される高校の歴史教科書で、沖縄戦による「強制集団死(集団自決)」の記述から「軍命」(軍の命令)という文言を削除し、日本軍による住民への「集団自決」の強制はなかったというように変更を行いました。

 これについて、沖縄の人々は黙っていませんでした。沖縄県にある41市町村のすべての議会および沖縄県議会が、検定意見の撤回と日本軍による命令・強制・誘導等の表現の記述回復を求める意見書を採択しました。これは、国内唯一の地上戦を体験し、一般住民を含む多くの尊い命が奪われ、多大な犠牲を強いられた沖縄県民の総意の表れです。

 事実を事実として直視せず、歴史の改ざんを行おうとする政治家たちは、一体何を目論んでいるのでしょうか。日本政府は在日米軍の再編のために、3兆2200億円を負担することを決めました。そして日本の軍事力と防衛費は、アジア・1、世界でも有数です。

 

 緊急医療援助を目的とした『国境なき医師団』という国際的な民間援助団体があります。1971年にフランスで設立されて以来、のべ1万人以上が60か国を越える国と地域で活動してきています。

 『国境なき医師団』によるカンボジアからの訴えです。「毎年雨季が始まる頃になると、数千人の子どもたちが死の危険にさらされることになります」。

 「犠牲となるのは主に4・5歳の子どもたち。感染してしまうと4〜5日で命を落としかねない恐ろしい病気、それがデング熱です。この病気のウイルスに対するワクチンが全く存在しないからです。

 この病気はシマカという蚊に一度刺されただけで感染してしまいます。シマカは暑さを好む性質があります。そして、街の家々の周囲に生息し、昼間から活発に飛び回りますから、森に潜み夜行性の、マラリアを引き起こす蚊であるハマダラカよりもずっと恐ろしい蚊なのです。雨季の間、道路の水溜まりや庭に置かれた水がめ、空き缶などのたまり水が、シマカを繁殖させ、感染症を撒き散らすための絶好の温床となってしまうのです。

 カンボジアではこの病気の死亡率が近隣の国々よりも10〜15倍も高いのです。なぜなら、母親が子どもの病気に気付くのが遅く、病院に来たときにはかなり病状が悪化していることが多いからです。初期の症状は普通の病気と何ら変わりありません。ただ、高熱を出すため、母親はいつものように子どもに解熱剤を与えます。やがて熱は下がり、3〜5日後には母親は安心してしまいます。ところがこれは薬が効いたのではなく、この病気の自然な進行段階の一つなのです。そして熱が下がるそのときから病気はさらに悪化していきます。子どもは発作を起こし、皮膚や鼻、歯茎そして胃から出血を始めます。血を吐き、血便までも。適切な処置がなければ、その子どもの命はもはや10数時間ともたないでしょう。

 これから10月までに、間違いなく1万人ぐらいの子どもたちが感染するでしょう。早期ならば点滴、カテーテル、臨床検査などによる簡単な治療を2〜4日間で4000円程度の費用でできます」。

 

 きょうは平和聖日です。平和というのは「なにごともなく穏やかな状態」という意味の言葉です。

 富める者が貧しい者から搾取するのは平和ではありません。強い者が弱い者を圧迫するのは平和ではありません。かつてのあやまちを認めることなく、自己正当化するために、東アジアの人々をさらに傷つけていくのは平和ではありません。もとより戦争の準備をすることは平和の対極です。蚊に刺されて子どもたちが死んでいく現実も、平和とはほど遠いものです。

 

 平和に近付くこと、それは富める者が貧しい者に富を分けることです。強い者が弱い者を守ることです。かつてのあやまちを認めて謝罪し、新たな関係を築いていくことです。戦争の準備ではなく、戦争を放棄することです。子どもたちが、すみやかに医療を受けられる体制をつくりだすことです。あらゆる方法で平和への準備を積み重ねていくことです。

 柏木正行さんという方の詩です。

 

            「遠い国では」

 

            遠い国では

            今も侵略が続いているのです

            強い人間が

            弱い人間を苛めているのです

            持つ人間が

            持たない人間を殺しているのです

 

            さあどうするんですか

            冷房の効いた室で

            遠い国から来た女性の

            悲惨な身の上話を聴いて

            それだけで終わるのですか

 

            苛められている人間を

            助けに行こうとは思わないのですか

            殺された人間に代わって

            復讐はしないのですか

 イエスは言っています。「平和をつくりだす人は幸いである」と。

 殺された人間に代わっての復讐は、平和をつくりだすことです。

 

 ドイツの神学者で牧師の、マルティン・ニーメラーの詩です。

 

         ナチが共産主義者を襲ったとき

         自分はやや不安になった

         けれども結局自分は共産主義者ではなかったので

         何もしなかった

 

         それからナチは社会主義者を攻撃した

         自分の不安はやや増大した

         けれども依然として自分は社会主義者ではなかった

         そこでやはり何もしなかった

 

         それから学校が、新聞が、ユダヤ教徒が

         というふうに次々と攻撃の手が加わり

         そのたびに自分の不安は増したが

         なおも何事も行わなかった

 

         さてそれからナチは教会を攻撃した

         私は教会の人間であった

         そこで自分は何事かをした

         しかし、そのときはすでに手遅れであった

 

 アモスは神の言葉を語ります。「正義を洪水のように 恵みの業を大河のように 尽きることなく流れさせよ」。

 その大河の一滴になりたいと思います。大きなことはできないかもしれません。力はあまりないかもしれません。しかし祈りながら行動していこうとするとき、きっと大河の一滴となれると信じています。大河は一滴の積み重ねです。一滴の集まりです。一滴からはじまるのです。

 私という一滴、あなたという一滴、みんなという一滴を集めて、尽きない流れのように、神の思いをこの世界に現していければと願っています。

 

 平和の実現のために、共に祈りましょう。