「笑いましょう」                           2007.8.19             ルカによる福音書6:20〜21  hymn 92,390,・90

 絵本作家の五味太郎さんと一緒に、「らくがきワークショップ」という催しを何度か行ったことがあります。

 礼拝堂の床全面にビニールシートを敷いて、その上に五味さんの指示で縦10■横 5.4■の黒い紙を広げました。参加者は子どもが 100人に付き添いの親たちです。五味さんは、白い絵の具を取ると紙の中央を広く使って大きな舟の形を描き、そして言いました。

 「これはノアの箱舟です。ノアの箱舟って知ってる? 知らない人はあとで、あそこにいるヒゲのおじさんに、あの人はああ見えても牧師なので、教えてもらってください。さあ、舟の中には大切なものを描きましょう。舟の外にはいらないものを描きましょう。わかる? 舟の中にはずっと持っておきたいもの、舟の外には捨てちゃっていいものだよ。はじめ!」。

 子どもたちはいっせいに舟の中に向かいました。やはり大切なものから描きたいようです。そして、出遅れて舟の中に入れなかった子どもたちは、仕方なく舟の外側に絵を描いていきます。捨てちゃってもいいものです。私のすぐそばにいた男の子は、舟の外側におとうさんの顔を描いていました。

 皆が絵を描いている間中、礼拝堂の中はとても雑然とした雰囲気でした。しかし、いろいろな所から笑い声が聞こえ、終始あちこちに笑顔の見える楽しいひとときでした。

 

 以前、あるところに書いた私の文章を読ませていただきます。

 

 『私たち人間には、微笑みという表情があります。そしてこの微笑みというのは、人間特有の行動であるといいます。もっとも、犬が好きな人は「我が家の犬は笑う」とか、猫好きの人なら「ウチの猫は微笑む」とか、馬好きの人だと「馬が私にニッコリした」、などとおっしゃるかもしれません。しかしそれはその人にしか理解のできないことで、人間のようにはっきりと微笑むことのできる動物はほかにはいません。

 微笑みという行動は、本能的というか生得的というか、遺伝的に決まっているものなのです。だから、生まれたばかりでまだ視力もなく、人間の笑顔を一度も見たことがないあかちゃんでも、生後しばらくして親が呼びかけると微笑みます。

 イギリスの博物学者で、進化論を確立したダーウィンは、自分の子どもが生まれた時に、「あかちゃんの前では決して笑顔を見せてはならない」と家族全員に言い渡したそうです。それでもあかちゃんは、生後55日頃微笑んだと記録されています。さすがはダーウィン、凡人とはやることが違うと思いますが、結果はあかちゃんの方が、神の創造の業が、偉大だったということなのでしょう。

 微笑みは、人間に与えられた大きな能力です。微笑みは相手に安心感と安らぎ、好感となごやかさを与えます。私のイメージの中にあるイエスは、いつも微笑みを顔にたたえています。それはイエスの優しさの表れなのです。

 私たちはペットなど動物の年齢を尋ねる時、決まって「人間でいうと何才ぐらいですか?」などと言います。それは人間と動物の成長の度合いや寿命が違うので、動物の年齢を人間の年齢に換算して考えるためです。

 ほとんどの動物は、生後短い期間を経ただけで独り立ちします。ところが人間の子どもは、他の動物に比べるとかなり長い時間をかけてゆっくりと成長していきます。すなわち、人間の子どもは長い間弱い存在であり、他者に養育してもらわなければ生きていくことができないのです。だから人間の子どもは、弱い存在である自分を守るために、強力な装置を持って誕生してきます。それは「なんてかわいい子だ」とまわりの人間たちに思わせる装置です。丸くて小さい約3頭身のプロポーションは、人間にはとてもかわいらしく思えるのです。私たちの遺伝子にはそのことが刷り込まれていますから、ぬいぐるみも3頭身のものがよく売れます。また何よりも、微笑み行動があかちゃんをかわいく見せるのです。人間は、自分もそうだったこともあり、この微笑み行動を遺伝子的に拒否しづらいことになっています。

 未熟な状態で生まれる人間の子どもは、捨てられないために必死です。そのため、動物界一の弱者として、微笑み行動装置を駆使しているのです。

 私たちも、隣人と共に生きるために、もう一度微笑み行動装置を持てればと思います。信仰によって動く、イエスの優しさのような、微笑み行動装置を駆使したいものです』。

 この文章は、12年前に書いたものです。長女の「未来」が1才になる前です。いま読み返してみて、生後3か月半の「汀」と一緒に暮らす中で、改めて感じることでもあります。

 この文章の中で私は、「私のイメージの中にあるイエスは、いつも微笑みを顔にたたえています」と書いていますし、今でもそれは変わりません。しかし、聖書の中にイエスが笑ったという記述はありません。福音書の中には、イエスが悲しんだり、苦しんだり、怒ったり、泣いたりという記事はあっても、イエス自身が笑ったとはどこにも書かれていないのです。

 ただ一か所、きょうの聖書箇所にのみ、「今泣いている人は、幸いである。あなたがたは笑うようになる」と記されていて、神の国での笑いを約束しています。

 

 プロテスタントの代表的作家である椎名麟三は、ユーモアと笑いについて、聖書と関連させながらたくさんのエッセイを書いていますが、その中の『道化師の孤独』という作品は、次の文章で結ばれています。

 「それにしても聖書のどこかでイエスが笑っていて下さったらと、ただそれだけが残念である」。椎名麟三は、イエスが何に対して笑っていたかを知ることによって、イエスが生きた自由な生き方の性質を知りたいと願ったのです。

 

 新約聖書学者の大貫隆さんは、イエスの笑いについて著書の中でこう述べています。

 

 「人間の笑いにもさまざまな笑いがあり、古代ギリシャ以来、最近ではフランスの哲学者ベルグソンまで、多くの哲学者や文学者が、笑いとは何かということについてしかめつらしく、ああでもない、こうでもないと大まじめで議論をたたかわせてきています。私は、私なりにそれらの説に当たって調べてみましたが、必ずしも満足は得られませんでした。何故なら、そこには人間の笑いの中でも最も積極的な笑いについて一言も触れられていなかったからです。積極的な笑い…それはもはや変えることができないかのように見える、悲しく苦しい現実、希望のない現実から人間を解き放ち、たとえ一瞬ではあっても、その現実から距離を取って、それを乗り越える笑いのことです。あるいは、人間に真の自由をもたらし、また逆に人間の真の自由からこそ発してくるような笑いのことです。

 キリスト教徒とは一体どういう人間なのでしょうか。それは新約聖書が語り告げているイエス・キリストの出来事の中にこそ、自分を本当の意味で自由にしてくれる力を見出だした、あるいは、それはそこにしか見出だせないと考えている人間のことではないでしょうか。かつてナザレのイエスの生と十字架と復活の出来事を通して罪人を招き、今なお招いている神のその招きこそが、自分を本当の意味で生かしめ、自由へと解放してくれると信じる人間のことではないでしょうか。そうであるならば、人間の真の自由から発してくるような笑いについて聖書が述べるところを考え直してみることは、実は深く福音の本質そのものと関わってくるはずです。罪人を真の解放と自由へ招かれたナザレのイエスその人が笑ったことがあるかどうか、一体何に対して笑ったのかを私たちが知りたいと思う理由もそこにあるのです」。

 

 イエスの時代の人々が、イエスのことをどう見ていたのか、そのことをイエス自身が語っている聖書箇所があります。マタイによる福音書11章19節です。「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」。

 イエスが本当に大食漢で大酒飲みだったかどうかはわかりません。もしかしたら当時の人々の悪意からくる誇張があって、「大食漢で大酒飲み」という評価になったのかもしれません。そしてその悪意の源は、「徴税人や罪人の仲間だ」ということにほかなりません。 しかしそれは、イエスが徴税人や罪人とされていた人々と仲間になって、しばしば一緒に食事をしたことを伝えています。そして彼らと楽しく過ごし、またその時に大いに笑ったであろうことは想像できます。楽しい食卓には笑いもご馳走です。罪人とされていた人々とイエスとの食事が、笑いに包まれたものであったはずだというのは、疑う余地がないと言ってもいいと思うのです。

 私たちは、イエスが何に対して笑ったかを知ることはできませんが、イエスがどのような人たちと一緒に笑ったのかを知ることはできます。そしてイエスが徴税人や罪人とされていた人々とこそ一緒に笑ったということは、イエスの生きた自由さを示すものにほかならないのです。

 

 ユダヤ教社会においては、徴税人や律法を守れない人は、皆罪人でした。彼らは厳しい社会的・宗教的差別の中に置かれた、救われる資格のない者、虐げられた人々でした。ユダヤ教社会は、人間が人間を差別し抑圧することで成り立っていた不自由な社会でした。 イエスはそれと正反対の自由を、罪人とされた人たちと一緒に食事をすることで、笑い合うことで、身をもって生きたのです。

 そのことの根拠にあったのは、律法を守るという条件ではなく、すべての人が神から無条件に招かれているという確信でした。人間に求められているのは、その無条件の招きを受け入れることだけであるというのが、イエスのふるまいの根拠だったのです。

 ですから、イエスが徴税人や罪人の仲間となって、共に笑った時、彼らの笑いは、「今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる」というイエスからの約束の先取りとなったのです。イエスの仲間となった徴税人や罪人たちは、差別と抑圧の中にある現実から、笑うようになる未来に希望をつないで、イエスと一緒に笑ったのです。

 

 椎名麟三は、『たたかうユーモア』というエッセイの中で、次のように述べています。 「私が生活のきびしさの中で学んだことは、幸福が下層階級のどん底の生活になればなるほどユーモアがあるということです。いわばそのようなユーモアは、たたかうユーモアといっていいでしょう。ギリギリのどん底生活をしている人は、ある場合にはそれがないと生きられないといえるのです。彼らは非常に傷つきやすいのですが、一面ユーモアを持っており、ユーモアでその追いつめられた苦しい状況や死んだりするような場所から救われているところがある。彼らには生活を思いつめるということも、腹を立てるということにも、立て過ぎをゆるめているというところがあります」。

 

 阪神大震災直後の忘れられない報道があります。テレビカメラが、全壊した家から荷物を取り出そうとしている中年の女性に寄っていきます。カメラマンが女性に声をかけます。「大変ですね」。「も〜ほんま大変やわ。見てえな、この手。震災の前は私、白魚のような指って言われてたんやから。ほんまやで。それがほら、今は真っ黒や」。カメラマンが尋ねます。「白魚のような指だったんですか。今はどんな感じですか」。「今か? 今はほれ、どじょうのような指や。アハハハハ」。

 これが「たたかうユーモア」です。たとえそれは一瞬の出来事であるにしても、自分の苦しみをユーモアと関連づけることによって、その苦しみを乗り越えようとしていたのです。

 阪神大震災で被災した人の中には、こんなことを言っていた人もいました。「こんな大っきい地震が起こったんが関西で、ほんまよかったわ。これが東京やったらえらいこっちゃで。なんせ関西は、笑いとユーモアの本場やからなあ。みんなで笑ろて、元気だして、ボチボチいくわ」。

 「たたかうユーモア」は、自分が持っていたあらゆるものを奪われてもなお、目の前の苦しみの現実とたたかい、絶対的な困難に立ち向かっていく装置なのです。どうしようもない苦しみの現実を乗り越えるための強力な装置なのです。それは他の動物にはない、神が人間だけに与えた装置です。

 

 途方に暮れるような現実の中を生きていかなければならない人々、椎名麟三の言う「下層階級のどん底」の人々、それがイエスの時代でいえば、徴税人や罪人とされていた人々でした。彼らは苦しみの中で泣いている人々であり、そして同時に「たたかうユーモア」と笑いを必要としていた人々でした。

 イエスはそんな彼らのもとへと歩み寄り、一緒に食事をし、共に笑いながら、彼らの現実を希望へと変えていったのです。

 

 私たちが現実の中を生きてゆく時、私たちの笑いがすべての苦しみを解決してしまうわけではもちろんありません。むしろ笑えない出来事が次々と起こるのが現実かもしれません。人間関係が稀薄なところには笑いは生まれません。忙しすぎたり、人間くささを失ったり、感動する心をなくしたり、自分の中にこもってしまうところからは笑えないのです。 だからこそ私たちは、イエスの笑いが、共感と解放と希望であり、隣人への自由な働きかけであったことを忘れないでいたいと思うのです。

 

 人間の笑顔というのは、すばらしいものだと思います。笑顔は、そこにいる人々を明るい気持ちにさせ、心を和やかにし、人間関係をスムーズに発展させます。笑顔のいい人は、相手に好印象を与えます。笑いは楽しさを与え、喜びの共感となります。笑うということは、健康にも重要な影響を与えるようです。呼吸機能や消化機能を良くし、免疫力を高めて、身体を活性化させるといいます。

 

 詩編 126編の冒頭にはこうあります。

 「主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて、わたしたちは夢を見ている人のようになった。そのときには、わたしたちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう。『主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた』と」

 どのような現実の中にあっても、私たちにとって神はいつも希望です。希望は喜びであり、喜びの表情は笑顔です。神によって結び付けられている者同志、もっともっと与えられている恵みを共に喜びたいと思います。そして喜びと笑顔と、笑い声の満ちる教会になれればと願っています。